クローン病が考える他を認める認めない
前回のあらすじ
自分の仕事仲間が適応障害になったのでその事について書いた
今回は認める認めないと言う事で考えさせられた事があったのでその事について書きたい。
自分の力はどれくらいなのだろうか?
と考えた事はありますか?
力と言っても色々な力があります。
腕力、脚力、体力、精神力、適応力、知力、結束力、財力等々ありますね。
身体的な力、精神的な力に留まらず経済や環境等もあり、本当に挙げたらきりがありません。
力が有る無しと言うのは必ず対象がありますよね?
その対象も様々です。
人であったり、物であったり、環境だったり、場合によっては自分自身であったりもします。
その結果と言うのはほとんどが「勝った負けた」になります。
ほとんどの人の場合は勝つ事に優越を感じ、負ける事に劣等を感じます。
いわゆる優越感、劣等感と言うやつですね。
そして負けるのが悔しい人は勝つための努力をします。
努力の結果、一番になる人となれない人がいます。
この負けた時に素直な人はその人を認める事となり、歪んだ人は認めないと言う事になるのではないでしょうか?
そして勝った人もその負けた人の努力を知っていたら認める事になるでしょうし、違ったら認めないとなるのでは無いでしょうか?
この認めると言うのも一通りでは無いような気がします。
・どんなに努力をしても追いつけない位に力の差が歴然としている場合
・力比べをする前は認めていなかったけど、力比べをしてみたら思いの他、力があると感じた場合
・ずっとお互いの努力を見てきた場合
この様にお互いにここまでの経緯を見て来た時に認める事が多いと思います。
ある日突然、勝負を挑んできた名前も由来も何も知らない相手を最初から認める人はいないのでは無いでしょうか?
そして、勝負をしてみて力が分かってからの認める認めないになります。
そんな事を色々考えていたら、認める条件と言うのがあるのでは無いだろうか?
この認めると言う事は場合によっては自分自身の何かを失う事によって成立るする場合もあるのでは無いでしょうか?
自分の結論では認めるには「勇気」が必要なのだと感じました。
ここで相手を認めた場合、常に相手の下にいなければならなくなるのではないか?
今まで築き上げてきた物を否定しなければならないのではないだろうか?
今まで信じてきた物を否定しなければならないのではないだろうか?
皆の信頼を裏切る事になるのではないだろうか?
この様に失う事がある為に「認める訳にはいかない」となる人もいるのではないでしょうか?
この失う事によって、今後の自分に影響が大きければ大きい程認める事が出来なくなるのでは無いでしょうか?
認められない人は自分が「絶対王者」でなければならないのです。
その為に全ての事を全て自分自身で行わなければ気が済まないし、他人を信用出来ないのです。
そうなると、時に自分自身を追い込む事になります。
なんでこんな事を考えたかと言うと、これは自分自身の話でもあるのです。
クローン病になる前の自分の社内での立場ではみんなをまとめる立場にいました。
それが長引く治療のせいで社内での信頼も失い、平社員に成り下がってしまったのです。
今は他の人がみんなをまとめています。
しかし、自分とは経験と知識が違うので自分が見ても、その人は劣っていると感じています。
だからと言って自分が返り咲くまでの体調では無いし、見込みもない。
このもどかしさをずっと頂きながら生活をしていました。
悔しいと思う気持ちがずっとあり、近いうちに必ず返り咲くと言う気持ちでやってきました。
しかし、会社から屈辱的な扱いを受けました。
そうした時に、
「あれ?なんで自分は返り咲きたいの?」
「なんのために会社に貢献するの?」
と冷静に考えられたのです。
その目で、自分の代わりにやっている人を見たら、
「確かに物足りない所はあるけど、一生懸命やっている」
「周りも認めつつある」
そう見えたのです。
そうしたらその人を認める事が出来ました。
なので、今はその人のバックアップに専念する事にしました。
もちろん、悔しい気持ちはあります。
だけど、ひねくれた感情で人と接しても、その感情って人にバレますよね?
自分の感情一つで雰囲気が変わるのであれば、気持ち良い方が良いでしょ?
それに認めると自分の気持ちも楽になったような気がするんですよ。
人を認めると頼みごとも出来るのです。
言ってもやってくれないとわかっている人に本心からお願いしますか?
違うでしょ?やってくれると思うから本心から頼むのでしょ?
それは認めたと言うことですよね?
本心と言うのが大切です。
ピンと張った糸は切れやすいですよ。
糸を張り詰めるのは一瞬で良いのです。
その一瞬の為に力の貯蓄をしていれば良いのです。
次のテーマとタイトルは未定・・・次回に続く