クローン病患者が誕生日を習った
前回のあらすじ
多目的トイレを便利さや必要性を書いた。
今回は誕生日について教えて貰った事があったのでその事について書きたい。
誕生日と言うと何を思い浮かべますか?
一般的には「産まれた日」と答える人が多いのでは無いでしょうか?
それ、正解です。
それ以外、何物でも無いですね。
疑いの余地が無いですね。
と言う事でした。
今日はとても簡単なお話でした。
でも、「それだけでは無いのだよ」と言う事を習いました。
これを聞いたのは自分の誕生日の日でした。
「お誕生日おめでとう」とありきたりのメッセージの後に書いてありました。
”産まれたばかりの子供と初めてのご対面。
お腹の中で足で蹴ってきたり、胃の方まで暴れて胸やけを起こさせたりしてきた、おてんばの子がやっと出て来てくれた。
難産と分かっていたので尚更愛おしくて感動のあまり、涙が止まらなかった。
そんなことを毎年毎年思い出します。
亡くなられたお母様も同じ様な思いを抱いていたのではないでしょうか?”
その様なお言葉を頂きました。
これだけだったら、「へぇーそーなんだ、自分には子供いないから分からないけど、初対面は感動するってよく聞く話ですね」って終わってしまいます。
でも、自分が「はっ」と思わされる言葉が続いていたのです。
”本人のお祝いなのですが、親にとっても大切な嬉しい日なんです”
と書かれていたのです。
この感覚はお子さんのいらっしゃる方には「そうだよ」かも知れませんが、子供のいない自分には一生かかっても気付く事が出来ない感覚なんですよ。
これを読んだ時に自分は軽い感動を覚えました。
このメッセージをくれたのは自分が勝手に母と慕っている人からでした。
やっぱり、自分が認めた人は粋な人だなと改めて思い知りました。
それで、母も同じ気持ちだったのかな?
末っ子だけど、自分が産まれた事、喜んでくれていたかな?
もしかしたら、自分が病気になった事、自分以上に苦しんでいたのでは無いだろうか?
等など、様々な思いが駆け巡ってしまい、思わず、目を熱くしてしまいました。
実は、このブログで一つ、はてなブログのガイドラインに外れた事が書いてしまったのか消された記事がありまして、そこに「いくら自分が悲しくても自死しないのは悲しみが分散させられるからでは?」みたいな事を書いていたのです。
(それ程過激な事は書かずに率直な意見を書かせて貰っていたので残念なんですけど)
でも、実際はそんな事なく、母の死は自分が思っているより大きいようです。
母が亡くなってからずっと「なんでこんなに寂しいのかな?」って思っていたのです。
でも、ずっと答えが見つからなくて。
親と離れて生活して、数十年。
その間、金銭的援助は一切受けていない。
家事一般にも困った事が無い。少なくとも親に頼る事は無い。
正直な所、親がいなくても一切困る事は無い。
母がいないと思う事が寂しいのか?
愚痴を聞いてくれない。
今日こんな事があったんだよと伝えられない。
それもあるだろうけど、それだけではない。
そして、今回、「もしかして、これかな?」と言う答えが出ました。
「母の意見や気持ちを聞けない」
これが寂しい気持ちの大半を占める事に気付いたのです。
語りかける事はいくらでも出来るのです。
でも、その反応を感じる事が出来ない。
亡くなった人からは真実を教えてもらう事が出来ません。
「あの人ならこうするだろう」は独りよがりかも知れませんよ?
今、話を出来るなら、たくさん話をしておきましょう。
それでも、寂しさは残るけどね。
次のテーマとタイトルは未定・・・次回に続く